わすれない

わすれないほうがよさそうなことを書いておく

2/22

このごろ頻繁に孤独を感じる、2020年上半期占いで今年は孤独を感じる場面が多い的なことを言われたのが響いているのかもしれない。

孤独は孤独だと感じたときにしか存在しない状況だと思う、それはだれかが言っていた(たぶん岸政彦さん)居場所というものはそれがないと感じたときにのみ想起されるものだ、居場所はつねに「ない」か「ほしい」もの、的なことと同じ。私は孤独だとかんじるから孤独なのだ。

孤独を恐れないなんてことできそうもない。いつだって私には喫緊の問題。

自分より不幸/さみしいだれかと比べることに意味はない。わたしはそのひとではない。家族も友達もわたしではなく、それぞれに別の見せられない領域があり、それぞれにこう見てほしいわたしのスタイルがあり、見ちゃダメなものを見ちゃったひとや見てほしい通りに見てくれないひととはいつもうまくいかない、それは≒恋愛において。わたしA・B・C…にそれぞれの孤独があって全てがいっぺんに満たされることはあり得ない。だからいつも孤独。理解されたいみたいな気持ち悪い系のことはおもわない、でもお願いだからこちらが提示するスタイルに完全に則ってわたしを見てほしい。約束だよ。

 

2/17

自分のやりたいことがわかんないっていうかやりたいことを忘れた気がする。

やりたいことわかんない~っていうほどの甘ちゃんではない。と思っている。また今更そんなことをいう度胸もない。

なんで芸術が、現代美術が好きになったんだっけ、それは間違いなく某アーティスト・コレクティブのせいだ。
こんなことやっていいのか…という唖然。いい子ちゃんの優等生だった(と思っている)私には衝撃だった。素直におもしろくて、魅力的で、心がグラグラする、と思った。

最近わたしの心はグラグラできているか?
微動だにしないわけではない、いい作品やおもしろい作品、興味深い本、そういうものらに触れてぞくっとする瞬間はある。ただそれが、わたしも頑張らなきゃ、に直結している感覚はある。

わたしは頑張りたくて芸術やってるわけじゃない。芸術やるから頑張りたいだけ。
いつから手段と目的と見栄と責任感と不安とぜんぶめちゃくちゃになりだしたんだろうか。こんなんだったけか。ピカッとさせる、を大教室のスクリーンで見たとき。白スクリーンと明るい照明でなんの写真なんだかよう分からんくて、目を凝らしてその文字を読み取ったとき。作品についての説明が冒頭だけ耳に入って、あとはぼーっとしてたとき。

大人になったといわれたくない。

4/19

考えすぎ。

考えすぎらしい。

考えすぎだよとか考えすぎないでと言われることがよくあるけど別にこちらとしては考えすぎているつもりはない。というか別に考えている自覚もない。頭の中にある。あるものを追っている。それだけ。なんなら追っている自覚もないかもしれない。とりあえず頭の中にある。

考えすぎだよと言う人はどんな基準で過ぎだな~と思うんだろうか。そんなこと考えても無駄だと思うからなのか、それは起こってみてから考えた方がいいことだと思うからなのか、めっちゃその考えに時間費やしてんな~というところなのか、なのか。もしかしたらこうやって理屈こねくり回してしまうことに対してなのかもしれない。

たぶん私に考えすぎだよって言ってくれる人は、考えると考えないの線引きをちゃんとできる人なんだと思う。

このことはこう考える。こういう考えが出た。こうすることにする。終わり。

このことは考えない。とりあえず様子を見る。なるように任せておく。終わり。

そういう意味でいうのなら、私はむしろ何も考えてないとおもうんだけど、

考えると考えないの線引きをしてテーマを出したりしまったりする動きの前に、すべてが雑然と頭の中にステイしてる状態で

あれはこうしてこれはああしてどうしてこうして……とやってる人を横目に

ああ、あるなあ。いっぱい。と思っているだけなんだよな

だから、なんでそんなに考えてるの?とか、

そんなに考えなくてもいいよ、と言ってもらったとき、それはうれしいけど、

何も考えてないので、特にどうすることもできなかったりする

こういうのが考えすぎだと言われるのかもしれない。

3/8

知ることは知らないことが減ることじゃなくて増えることだというのは何千年もむかしから世界のいろんな場所でいろんなひとがいろんな表現で唱えてきたことだから別段あたらしい発見ではない。あたらしい発見ではないけど世界のだいたいのひとはそんなこと忘れて生きてそうだしなにかを知るとまたひとつ世界を占有できたきもちになるのかもしれない。実際は世界から追い出されているようにもおもう。自分が頭のなかで組み立てる世界地図パズルのなかの1ピースをはめる、ひとつピースをはめるということはそれまで莫大な無だったそのピースの隣の空間にもうひとつはめるべきピースの場所が用意されるということ。無限のピースの山に放り出される、たったひとつぴったりとはまるピースをさがす、はめる、でもそのピースがほんとに正しいものなのかも完成したあかつきの世界地図が正しいのかもそもそも完成するのかもよくわかんない。わかんないけど中途半端なパズルほったらかすとなんか癪だし邪魔だしとりあえず組み立てる、組み立てる、終わんない、いやになる、ぜんぶ崩す。あ〜やっぱ今回も完成しなかったな〜だってこのパズル難しいもん。また気が向いたらやろ。

3/3

つらいときつらいつらいと喚いて周りを困らせるばかりしかできない人間だけど、たまにつらいときでもだれか他のひとにやさしくできるときがあるとすこしだけ自分に自信がでる。自信の出処を第三者がどのようにとらえるかはどうでもよくて見返り求めてる求めてない◎●△☆:!¥とかもどうでもよくてただあまり得意でないことができてえらいねとおもう。すこしずつやさしくなりたい。

2/26

なんかつかれてるんですよね毎日。なんでとかそんなのもあんまり考えたくないけどいろんなものがいっぱいいっぱいで破裂しちゃったみたいなやつ。ときどき苦しくなって息ができなくなって自分が内側にいるのか外側にいるのかわからなくなる、ぶよぶよでどろどろで生暖かくて嫌なにおいのする自分が剥き出し、そんなものよくよく隠しておきたいのに。自意識が過剰で過敏でいつもそんなものなくなればいいと思う、過剰な自意識に気づいてるけど制御できないじゃん、制御したらまたどこかでしわ寄せがきて呼吸できない瞬間がある。意識いらない。無になりたい。まどかはすごいと思う、思念体になって永遠に宇宙に在り続けるって苦痛で苦痛でたまらなさそうだけど発狂もできなくて、なぜなら概念だから、なんかそんな罰受ける地獄あったような気がするな。日本の地獄は陰惨。あるひとはわたしにきみは世界に対して臆病だから優しいのだと、その優しさはみんなが見ないものを見ようとする眼差しだしその眼差しをもつ勇気がきみの強さだとそう言ったけれど、強かったら臆病じゃないよ。みんなが見ないものを見ようとするのはよく確認しといたほうが不測の事態にびっくりして泣いちゃうことなくなるからだよ。いつもわたしは自分のぶよぶよどろどろして傷つきやすい心をまもるためにすべてを選んでいる。それでもいつも見たことないものにびっくりしてきらきらしてどきどきする感覚もあってそれがとても好きだから柔らかくてあたたかくて心地よい、外がよく見える繭の中に籠ってそこから世界を見ることは断固拒否しているけど、でも生身で棘だらけの世界に立ち向かっていって怪我してぴいぴい泣いてるんじゃあね、愚かだよね。いつまでもわたしは3歳児、世界は自分のものだと思っている。でもきみの知ってる世界はいつもママが見守ってくれてる公園やおうちのなかだけなんだよ。